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   アーメン、信仰の言葉アーメン
     「比較聖書翻訳変化学」ことはじめ               村上定幸

ヨハネによる福音書3章3節は以下のように訳されている

KJV John 3:3 Jesus answered and said unto him, Verily, verily, I say
unto thee, Except a man be born again, he cannot see the kingdom of
God.

NIV John 3:3 In reply Jesu declared, "I tell you the truth, no one can
see the kingdom of God unless he is born again."

ASV John 3:3 Jesus answered and said unto him, Verily, verily, I say
unto thee, Except one be born anew, he cannot see the kingdom of
God.
 

NAS John 3:3 Jesus answered and said to him, "Truly, truly, I say to
you, unless one is born again, he cannot see the kingdom of God."
 

NAB John 3:3 Jesus answered and said to him, "Truly, truly, I say to
you, unless one is born again he cannot see the kingdom of God."
 

RSV John 3:3 Jesus answered him, "Truly, truly, I say to you, unless
one is born anew, he cannot see the kingdom of God."
 

NRS John 3:3 Jesus answered him, "Very truly, I tell you, no one can
see the kingdom of God without being born from above."
 

NKJ John 3:3 Jesus answered and said to him, "Most assuredly, I say
to you, unless one is born again, he cannot see the kingdom of God."
 

WEB John 3:3 Jesus answered and said to him, Verily, verily, I say to
thee, Except a man be born again, he cannot see the kingdom of God.
 

RWB John 3:3 Jesus answered and said to him, Verily, verily, I say to
thee, Except a man be born again, he cannot see the kingdom of God.
 

DBY John 3:3 Jesus answered and said to him, Verily, verily, I say
unto thee, Except any one be born anew he cannot see the kingdom of
God.
 

BBE John 3:3 Jesus said to him, Truly, I say to you, Without a new
birth no man is able to see the kingdom of God.
 

YLT John 3:3 Jesus answered and said to him, 'Verily, verily, I say to
thee, If any one may not be born from above, he is not able to see the
reign of God;'
 
 

口語 3:3 イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく
だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。

 
新改訳 3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、
あなたに告げます人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

 
新共同 3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく人は、
新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 

GNT John 3:3 avpekriqh VIhsouj kai. eipen auvtw Amhn amhn legw
soi evan mh, tij gennhqh anwqen ouv dunatai ivdein thn basileian
tou qeou
 
 

ヘブル 3:3 heshib yeshuya wiamar elain "amen amen aniy aomer lka, im yawared
adam milmayirah , lo yukal lireot et malkot haelohim."
                      ギリシャ語ヘブル語の表記は、まったく妥当なものではありません(いいかげん)。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 

 さてここでだ、
    
    はっきり言っておく・・・

   まことに、まことに、あなたに告げます・・・
      
が同じ言葉の(Amen)の日本語訳に見えるだろうか?
   よくよくあなたに言っておく・・・(フランシスコ会)
   まことに誠に汝に告ぐ、・・・(協会文語訳)
さらには
   「そうですか、でもよく言っておきますが・・・」(リビングバイブル)
   まことにまことに私は言う・・・・(バルバロ・白柳訳)
その他山のような訳が出てくる。
  1:結論から言えば
   「アーメンアーメン、あなたに言います。・・・・」にすべきだ、ということになります。
  このことを
  1−1.旧新約聖書から―ギリシャとユダ―
              ヨハネによる福音書は、ロゴス讃歌(1:1−18)に始まっているが、これがヘレニスチックな、文化理解からきているものか、創世紀の創造論から理解されたものかが大きな鍵を握っていることから始めなければならない。
  1−2.時間と文化に支えられて変化する、「比較聖書翻訳学」の立場から
(旧約のアーメンを見てみます)
      福音が息づいている文化には、逆は立証できない場合はあったにしろ、必ずそこには日常使用され日常会話として容易に理解できる「訳」が存在する(ルターのドイツ語訳聖書の改変に関して果たした役割に触れる必要もないであろう)。
  日本語訳聖書の編纂に関しても、よく理解できる訳、ということについては最重要なこととして目的化されたに違いない。けれどもここで、ヨハネがたっていた文化的環境、申命記に出てくる、信仰の言葉あるいは宗教の言葉としてのアーメンがどのように取り扱われたかが問題になる。
  日本語訳聖書には、多くのアーメンが登場する、黙視録の最後も、ギリシャ語のとおりにアーメンがそのまま、信仰的内容を持つ言葉として用いられ理解されている。しかるに二回言われると、単なる「よくよく・・・」などとなって強調になってしまっている。果たして、単なる強調だろうか? という問題が次に発生する、イスラエル聖書協会訳では、「アーメンアーメン・・・」が採用されている。このことについて論じなければならない。
  1−3.特に日本文化の中における、コンテクスト
  単なる強調であれば、「むちゃむちゃに・・・」であろうが「ここで改めて・・・」としても良いはずである。なのに、繰り返しのないところでは、受け継がれなければならない、クリスチャンの信仰理解を告白する言葉としてアーメンが生きている。このことに関して論ずる。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 

  2−1.文意の isomorphic な構造と、語義の homeomorphic な構造
  問題を整理したい。
  命,いのち、生命が、多くの訳において、最もふさわしい訳として一つの言葉に使用されている。訳者が力を込める事態の一つである。これが単語のhomeomorphicな関係である。けれども、センテンスや句としては、異なる内容を表すべきではない。これがisomorphicな一意性に関する問題である。
 

  2−2.福音の獲得に条件を提供する、文化的構造としての聖書翻訳
           contextualizeとanti-contextualize
  2−3.神学の分野としての聖書翻訳に帰って
     「情報構造論」の視点からする状態表示あるいは状況記述に関わる視点から、訳の妥当性が吟味されない個所が多くある。
  一つの頂点は「エリエリラマ・・・」という伝え方で、他の言語の表現の介入を許さない方法で、新約聖書の中に既に見られる。
  もう一つの極端が一つの言葉に一つの、日本語の単語を対応させる、理解である。
アーメンに完璧に妥当する日本語があれば、機械的にそうすべきである。
の視点から見てみることにしようというわけである。
  初代教会が、式文としてアラマイクから引き継いできた言葉で、マラナタ(Tコリント16:22)についても、これはもちろん固有名詞ではなく、KJVとNKJVの取り扱いが違っている。それは、次に示す、PDFファイルにかかれたようになっている。マラナタについても、ちょっと見てみましょう.こちらのほうは、声になった信仰の言葉と言う意味はありますが、正しい訳と理解(?:要解説)と言うことにも関わってきます.Ephphatha(MK.7:34)、”エパタ”も、聖書自身が、解説を加えているものに数えられる、固有名詞ではないものになります。



   秋の特別講座
 
 
J.Wesleyの説教に見る、「キリスト者の完全」についての一考察(PDF FILE)
黙示録に出てくる恐ろしい試練「黙示録」(PDF file)
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  聖書の時代
新約聖書成立史表
聖書大事典・聖書歴史年表(教文館発行)による
年代
キリスト教
新約聖書
世界歴史
10 

 
 
30頃、イエスの処刑
32ステパノの殉教
33パウロの回心
35パウロ第一回エルサレム訪問
42/43ゼベタイの子ヤコブ殉教
47-48パウロ第一回伝道旅行
48エルサレムで使徒会議
  14アウグスチヌス死す
50 

 
49-52頃パウロ第二回伝道旅行
53頃-56/58パウロ第三回伝道旅行

58/60パウロ皇帝に上訴し、ローマに護送される。

Tテサロニケ書 
Tコリント書
ガラテヤ書
ピリピ書
ピレモン書
Uコリント書
ロマ書
 
60
62主の兄弟ヤコブ殉教
64頃、ローマでペテロ(とパウロ?)殉教

66-70第一次ユダヤ戦争

50〜60頃、マルコ福音書
64ローマ市大火、ネロ、キリスト教迫害
70
70エルサレム神殿炎上 
73マサダ陥落
   
80
  マタイ福音書
ルカ福音書

80-90頃、コロサイ書
エペソ書
ヘブル書
Uテサロニケ書

 
90
90頃、ユダヤ教、ヤムニ宗教会議。キリスト教徒、会堂より追放される 
旧約聖書正典の確定
93-94、ヨセフス「ユダヤ古代史」
90-95頃、使徒言行録 
ヨハネ黙示録
Tペトロ書
95/100頃、ヨハネ福音書
T・U・Vヨハネ書
ヤコブ書
ユダ書
95頃、ドミティアヌス、キリスト教徒を迫害
100
110頃、アンティオキアのイグナティオス、ローマで殉教

ローマで復活祭が教会祝祭とされ、以後各地に広まる

132-135第二次ユダヤ戦争

2世紀前半 
Tテモテ書
Uテモテ書
テトス書

2世紀中葉
Uペトロ書

125、ハドリアヌスのキリスト教徒寛容令

165頃ユスティノス殉教