メッセージ下書きメモ
   ――― April 30,2000
         学院教会 ―――

  復活の主に出会って
聖 書:ヨハネ20:24-29
賛美歌:147,496,497
聖 句:20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

この個所は、「疑り深いトマスの物語」としてものすごく有名なところです.
 そして多くの注解書によると、たとえばエマオ途上の物語などとの関係など若干、整合性というか、時間関係のずれが見られるようですが、ここでは
 この御言葉がわたしたちの教会に教えていることについて中心に見てゆきたいと思います.つまり、どんな感じがするでしょうか? ということです.この記事を読んでどんなふうな感じがしたか? というふうに言い換えても同じかもしれません.
 わたしたちの日常においては、確かめなければならないことは、もっとも冷静な視点を持って確認にまで至らせるのが科学的精神とされていて、それは正しいこととして教えられます.

 主は真中にたたれましたが、それはもはや、その顕れ方にしても、もはや肉においてのものではなく、復活の栄光の姿としてなのです.―――ファリサイ派の人たちを中心とする人々の教えにも「復活」はありましたが、その理解は、文字どうりの「よみがえり」だったそうです―――。ところが主は、その十字架上での、傷口を、蘇りの御姿からは消されなかったのです.
 なぜでしょう.わたしたちを、お愛しになってくださっている印かもしれません。

 さらに主は、弟子たちに教えをなされます。そのポイントは、「遣わす」と言うことと「赦しなさい」と言うことだったのです.

 よき交わりの中で人を赦さなかったら、あなた方にもこの様に傷が残りますとおっしゃっているようです.
主の多くの、教えにもありますが、思ったり、心がけたり、努力して行われるゆるしには、基本的な限界があるのです.その力があるのは、わたしたちの体を、聖なる宮としてそこに住みたもう、主への信仰によるのでしょう.

  イザヤ
31:31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
31:32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
31:33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
31:34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

 わたしたちの肉体のうちに主は住みたもうのですから、その肉体を、兄弟姉妹の肉体も、ましてや自らの体も大切にしなければなりません.この様に命じておられるのです.

 「主は何処に、今、おられるのでしょう」、こたえは、わたしたち一人一人のうちにという答えも含んでいるようです.「ただの器に過ぎない我々の体なのだから」、医学的にも、社会的理解においても自由にもてあそんでよいうということには、決してならないのです.Tコリント6:19に書かれているとおりなのです.

 こんな経験をしました.前にも似たような経験をしたことがあるのですが、ある小さな単立教会で、ごく普通の感じと言う言い方が一番ふさわしい教会に、これまたごく普通の兄弟がいるのですが、その兄弟があるとき、こんな話をされました.
 「ある、癒しの賜物を持った先生がおいでになって、わたしの病のすべてを一撃のもとに癒し悪の例を追い出してくださった、わたしは、若いときから、糖尿に苦しみ、肝臓にも重い病気があって、先日はついに、喉頭癌との先刻を受けたところだったのですが、すべて完全に癒されました・・・」と言う具合です.どのようにこの話を感じられるでしょう.そんな馬鹿な、やれだったら、日本中のお医者さんが失業しちゃうじゃないの。と思う方も多いと思います.
 わたしも少なからず、そんなような感じになり.牧師の悪いところでしょうか?.この兄弟いったい、どんな信仰を持っているのか、チェックを入れてみたくなってしまいました.
 ところが、この兄弟に、異端だ、と言うのだったら、我々の半分ぐらいも、異端か、無心論者になってしまうほど、まぁ「しっかりした」と言うのが適当だと思うのですが、「正しい」理解を持っておられるのです.

 それじゃわたしたちは、これはわたしの経験なのかもしれませんが、何人もの方に、話を聞いてみると、「あの時神が働かれた、主がともにおられたとしか思えない」と言う経験を持っておられる方が多いのです.わたしもそうかもしれません.

 ということは、みないで、ある面神秘的とも言うべきことを信じているのです.
わたしたちは、十字架の出来事を、弟子たちと多くの教父たちの確証において信じ、いまに至っているのです.主は見抜いておられたようですね.「わたしには何も、『主がわたしにこのようなすばらしきことをなしてくださった』と言うことがない」と思わないで頂きたいのです.Heb11:11に「信仰の定義」のひとつが記されています.信仰においてまだ見ぬ事実を確信すること。これが定義なのです.

 ・・・あなた方が赦さない罪は、教会の負うべき罪として残る。そうなのです。赦さないとは決して曖昧にしてしまうと言うことではないし、好き勝手にしても良いと言うことではありません.そこには、信仰においても社会正義においても、訓育することが求められています.失敗しても機会が与えられることを意味しています.教えあいなさいと言うことをいっているのです.愛し合いなさいといっているのです.愛し合いなさいって、ほっときなさいとか、あの人はあの人とか、ましてや見てみぬフリをしなさいということなどとは無縁なのです.それは、罪として残ります.
今見たとおりです.
 愛せる間に愛しておきましょう.いろんな意味でです.
 あるペットを兄弟が飼っていたとしましょう.あには、いつも「かわいいかわいい」といっていました.弟も好きだったのですがその機会がないままに、年とってそのペットは死んでしまいました.兄は、愛していると言うことをたくさんたくさんいってやれたので気分が楽でした.おとうとは、口に出してそのことがいってやれなかったことを後悔したそうです.

  わたしたちは、主の愛を見てはいない。けれども信じている.
 
 

母の日 5月14日 堺キリスト教会
賛美歌 496、U-157、496
「彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられる」
 エペソの諸教会への手紙
6:1 子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。
6:2 「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。
6:3 「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。
6:4 父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。
6:5 奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。
6:6 人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、
6:7 人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。
6:8 あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。
6:9 主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。

 「母の日」もう、おなじみですが、普通のキリスト教辞典には出て者もあります。その歴史はそんなに古いものではなく、百年程前の、メソジスト教会で、わたしたちを優しく、慈しみ育ててくださったお母さんに感謝を花に送ることで表そうとして、行われたことに始まります.たしか、今年は百回目か百一回目の母の日だと思います。

 さて、この手紙は、獄中から諸教会に、テキコに託されたものです.
「私は今軟禁の状態にある、けれども主の計画は、教会に着実に進められている」と、自信をもっていったいるように読めます。
 わたしたちは、出エジプト記や、申命記で与えられたことが記されている十戒(十の言葉)の第五の戒めがこれであることを知っています。1〜4は、神様との関係がかかれていますが、人と人との関係に関する、第一の戒めがこれです(6:2)。
 この記事の前後、この記事の書かれている位置はどこでしょう。両親と子、主人と僕などの関係、社会的関係性に関わることに関する、教会への教えの中に位置付けられているのです.すなわち仕え、尊敬する者と、仕えられ尊敬されるものといっても同じことでしょう。
 今はこれらの関係がますます破壊され、教会の中にも、知りたくもないようなことが起きていると言えないでしょうか.
 一人りの主人としての主がおられ、教会と言う集団はこの種に従い、主が神のアイデンティティー、キリスト者が弟子たちの応答と言うアイデンティティーを持っているのだということの大切さを述べているのではないでしょうか.
 主人は僕に勝っています.権力もあります.その分僕に対する責任もあると言えるでしょう.
 今も変わる事はないでしょう、納得され、尊敬される主人でなければならないのです.権力やポジションを振るうことで解決しようとしても尊敬は得られないでしょう.父母も主人も教えるものを持っていなければなりませんし、持っているのです.僕を怒らせてはならないとはこのことです.わたしたちも、自分より地位の下とされる人々に対して、納得させることなく、あるいは、明らかに『そちらのほうが正しい』と思われることを言われて.「なぜ上の者のいってることが聞けないのか」なんていっていたとしたら、それに気づき、主に恥じ入るべきなのです.
 教会に集うわたしたちも教え教えられるものでなければ、この、従いと言うことを決して、信仰を持って行うことが出来ないのではないのでしょうか.
 メソジスト教会で始まった、この母の日は、母の愛と教えと経験を受け継ぐべく、感謝すべき日なのです.教会の母のなんと多いことか、家庭にあって、教会にあって、社会にあって、母はこれほど、教えてくれる力を持っているのです.
 教えると言えば、教会学校のことを思い出すでしょうか.
 この歴史においても、メソジスト運動は深く関わっているのです.もし教える内容など何もないと思っていたとしたら、悲劇です.そう、日々の生活の貧しさに悩み、あきらめ、何も期待できないような状況だったら.わたしたちだってそんな状況だったら.教会学校の先生なんて、思いもつかないかもしれません、Wesleyは、これは野外説教のそれほどあとのことではないのですが、「日曜学校」を仲間たちと、キングスウッドにとどまらず各地で始めました.「最も貧困の中にある人々」のことは一応無視していた国教会で教会生活を守る多くの人々は、日曜学校など、安息日の勤労にあたる・・・、その他の理由をつけて非難したこともありました.子どもたちだけでなく、大人もすべて日曜学校の生徒でした.日常の生活のどこに、信仰のかけらがあるのだろうかと見えるのだろうかと言う生活に追いやられていた人々に、期待をしたといえるでしょう.聖書をはじめ、読み書きそろばんが教えられました.すべてのことが教えられたのです.そしてやがて教会学校として整えられそれが今日に及んでいるのです。
 改革者たちも、教育の重要さについては多くを語っています.信仰の社会性についても多くを語っていました.
カルワンについてみてみましょう、
 ・・・・、日曜日にごくわずかでも進むことが出来ないくらいに不幸な歩みしか出来ない人は、一人もいない、したがって、我々は主の道をうまずたゆまずいくらかでも前進する努力を止めてはならない.また我々は、成功のわずかさに失望してはならない.なぜなら、今日が昨日に勝っているならば、我々の業は失われていないからである。我々はただ誠実な単純さをもって自らの目的を眺め、その終点に達することをあこがれるべきである。われわれはついに、内の弱さを脱ぎ捨て神とのまったき交わりのうちに受け入れられる日に、これを捉えるであろう。
           「綱要」3-1
 ウエスリにおいて、成長はこの様にたとえば語られます、
 ・・・、私自身の身体の本性が腐敗しきっているために、自分の心を支配する絶対的な力が、わたしにはないが、にもかかわらず、神に恩寵の助けによって、わたしは、善悪いずれをも選択する、力を持っている。わたしには仕える方を喜ぶ自由があり、よいほうをえらぶと、死に至るまで、そこにとどまることも自由である。
           説教「人間とは」 vii
 そう、わたしたちは、社会的な善悪を見分け、意志ある理性を持って信仰を神から与えられていることを知っているのです。
 教会に集う母に対して、我々は、その人たちの経験に学びたいものです、最近、教会に老人が多いことが良く問題にされますが、なんとすばらしいことか、これらの人たちは、みてきておいでになり、我々が成長することを、望んでおられるのです.

 
「わたしたちの時」 5月21日 名古屋守山キリスト教会
賛美歌 19、374,391

マルコによる福音書
 
14:3 イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
14:4 すると、ある人々が憤って互に言った、「なんのために香油をこんなにむだにするのか。
14:5 この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。そして女をきびしくとがめた。
14:6 するとイエスは言われた、「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
14:7 貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。
14:8 この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。
14:9 よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。
 「なぜ女を困らせるのか?」、そう言って下さったのはイエス様だけでした.貧しい、らい病人シモンの家にあっては、三百デナリオンと言えば、とてつもない金額だと想像することが出来ます.パリサイ派の人々は.穢れた者として、近づくこともしませんでした。しゅは、あえてここで、おそらくは、神様の救いのわざとご自身の役割についてお話になっていたことでしょう.
 ここに出てくる女性にとって、時が今訪れたことに気づいたと言えるでしょう.高価なナルドとありますが、それをもって油注ぎをしようなどとは、旧約聖書から理解を進め、行いにいたっとはなかなか考えにくいところです.それが彼女に出来る、最良の、あるいは唯一の、思いつくことだったに違いありません.
 ところが、人々の反応ときたらどうでしょう.ここには人々とありますが。マタイ福音書では、弟子たち、ヨハネ福音書においては、ユダと記されています.四面楚歌だったと言えるでしょう.しかも、それが無駄だとたしなめているようです。もっと有効な使い方があるといっているのです.
 でもそんなことなど実際にはしないことは目に見えているのです.タテマエとわたしたちの良く知っていることです.
 このようなタテマエは、そんなこと考えていないことなんか、考えてもいないことははっきりしているのに、なかなか反論しにくいものです.わたしたちもそんな経験をしたことがあるようです。
 誰にも支持をされませんでしたが、主は評価されました.いやこの自身自分のしたことの意味を、この女性、マリアとありますが、主に教えられたとさえ言えるかもしれません.
 わたしたちの毎日は、備えの日々と言えるでしょう、ちょうどこの女性マリアが、高価なナルドの香油の使い道を待っていたようにです.ミスター・マリヤ、ミス・マリヤ、ミセス・マリヤ、イエス様はこの、全ったき、愛を期待しておられるのでしょう。ですから今でもこの女性のなしたことは伝えられているのです。記念として、わたしたちも語り継いでいるのです.時と言うものはいきなりやってくるものではありません。ほうっておいても、やってくると言うものではありません.わたしたちにも記憶があると思います、あのときが時だったのだ、あるいは将来に渡って、私はそのときをこがれ待ち望む。・・・。きっとあると思います.ちょうどこの女性がそのときを逃すことのないまでに、知り得たように、わたしたちも自分の時に敏感でありたいものpです.あたかも今日何もなかった用に思えても、それは、時と時の間の備えの時間なのです.
 またわたしたちは、特に自分に権力やポジションがあると思えば、なおさら、この人々にごとく、この女性のような行いを封じ込めてしますようなことをしないでしょうか。
 雅歌にも、美しい、美しいものの代表のように歌われているこのナルドの香油をめぐってなされたことの意味の大きさは、まだまだ教えられる多いところでしょう.
 さらに加えてイエス様は、マタイの書き方ですが、このような限界ある人々を弟子とされているのです.まさしく驚くべきことでしょう.

 Jul.18,2000 名古屋守山キリスト教会
  「交わりに生きて」
聖書は口語訳
旧約聖書:旧約聖書・詩篇
118:17 わたしは死ぬことなく、生きながらえて、主のみわざを物語るであろう。
118:18 主はいたくわたしを懲らされたが、死にはわたされなかった。
118:19 わたしのために義の門を開け、わたしはその内にはいって、主に感謝しよう。
118:20 これは主の門である。正しい者はその内にはいるであろう。
118:21 わたしはあなたに感謝します。あなたがわたしに答えて、わが救となられたことを。
118:22 家造りらの捨てた石は
    隅のかしら石となった。
118:23 これは主のなされた事で
    われらの目には驚くべき事である。
118:24 これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう。
118:25 主よ、どうぞわれらをお救いください。主よ、どうぞわれらを栄えさせてください。
118:26 主のみ名によってはいる者はさいわいである。われらは主の家からあなたをたたえます。
118:27 主は神であって、われらを照された。枝を携えて祭の行列を祭壇の角にまで進ませよ。
118:28 あなたはわが神、わたしはあなたに感謝します。あなたはわが神、わたしはあなたをあがめます。
118:29 主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに/絶えることがない。

新約聖書:使徒行伝
4:5 明くる日、役人、長老、律法学者たちが、エルサレムに召集された。
4:6 大祭司アンナスをはじめ、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな集まった。
4:7 そして、そのまん中に使徒たちを立たせて尋問した、「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このことをしたのか」。
4:8 その時、ペテロが聖霊に満たされて言った、「民の役人たち、ならびに長老たちよ、
4:9 わたしたちが、きょう、取調べを受けているのは、病人に対してした良いわざについてであり、この人がどうしていやされたかについてであるなら、
4:10 あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。
4:11 このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。
4:12 この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。
賛美歌:30、U−157、Uー192
 先週のペンテコステ礼拝は如何でしたでしょうか.
 旧約聖書において、預言者エレミヤを通して、エレミヤ31:31-34にその内容がはっきりと記されているように、神様は、やがての時にわたしたちと、新しい契約をたてようとおっしゃっています.それが成し遂げられた事を、このペンテコステのときに、もう一度学んでみたいと思います.
 まず聖書に聞き入りましょう。ここでは、イスラエルと言う言葉がひとつにキーワードになっているのですが、そして多くの聖書注解者もそのことには触れているのですが、そのことを念頭におきながらも、まず、この美しくて優しい詩を読んだときにわたしたちはどんなことを感じるでしょうか.
 まず、詩篇の118:23をさかいに、「わたし」と「わたしたち」と言う言葉が綾なすように、使われるようになっているということです.何が起こったのでしょうか?
 主への感謝と讃美は、私だけのものではない、私と神と、わたしたちの「関係」の上にあるのだということかもしれません.
    (上の聖書の言葉で色を変えてあるところを見てください)
 そしてわたしたちが知っているように、教会もそうなのです.私が主を信ずる、信頼すると言うことと、私は信仰者の一員として信仰生活を、集団的行為として知りますということかもしれません.その中にあって、私はなお私の信仰を知り、与えられると言えるでしょう.
 先に讃美いたしましたが、U−157は、メロディーは「ダニ―ボーイ」ですが、「わたし」と言う単数はひとつも出てきません、それに対して、U−192「シャロンの花」は、中田羽後の詞と書いてありますが、「わたしたち」と言う言葉はひとつも出てきていないのです.
 ひょっとしたらわたしたちも、そんな中にあるのかもしれません.ある人は、交わりを失って、信仰のかなりの部分が瓦解していくように受け取るかもしれませんし、またある兄弟姉妹は、一人で、大きな自然の中で、聖書を読み、ギリシャ語本文に目を通し、十分に祈り、我がうちなるキリストに、感謝をささげる信仰生活に、自らを見出すかもしれません.
 主の御霊が、我がうちに住まれ、我が体を、聖なる、「聖霊の宮」とされたとき、上の詩篇後半がそうであるように、私と私達とは、綾なす関係、聖徒の交わりと言う、ことに明確に知らされるのです.

 使徒行伝は、教会の誕生、2:44-45、「一切のものを共有に・・・」とあるように、キリスト者の教会の成長に常に焦点が当てられています.

 さて、使徒行伝に記録されている、ペテロとヨハネの、証にこの部分(上の詩篇)が引用されている、あるいは同じ表現がなされることについてですが、

ASV Acts 4:11 He is the stone which was set at nought of you the builders, which was made the head of the corner.

NIV Acts 4:11 He is "'the stone you builders rejected, which has become the capstone.'

NKJ Acts 4:11 "This is the 'stone which was rejected by you builders, which has become the chief cornerstone.'
 

等といろいろな英訳が存在するところです.ギリシャ語のケファレーですが、まさしく、キリストを指す言葉のメタファーとして使用されています.また使徒行伝では、預言者ヨエルの言葉がなるとき、すなわち、すべての人々に、主の御霊が臨む時は今なのだ.と言う証の中で用いられていることは明らかです.
 主イエスが、無価値なものとして、ローマの刑罰である十字架刑によって、権威あるものから捨てられたのは明らかなことでしたが、そこにこそ、主の思いと救いと、購いのすべてと、罪の赦しのすべてと、永遠の命があるのだと彼らは立証しているのです.
 それではその実体、枝を携えて祭の行列を祭壇の角にまで進ませよ、と語られている実態は何なのでしょうか、それが教会、主が我々を集めてくださる教会であり、我々が交わりを整え、礼拝にあずかることを示しているのではないでしょうか.
 ここに教会の誕生日としてわたしたちがペンテコステをおぼえる価値があるのです.この律法の時代が終わったとき(なくなったのではありません)、なしえぬ律法の行いの不十分さに、恐れるのではなく、神様の招きの中でともどもに、我がうちに住んでくださる、イエス様に、ひたすら勇気付けられて、お応えすればすべての清い心と、愛の律法のうちに住むことが赦される「新しい契約」の時代を教会がもたらしたのです.そしてその教会は主のみ体なのです(ローマ書)。
 きょうもういちど、教会の交わりが神様によって与えられ、さらにすべての人に用意されていることをおぼえたいものです.
 若くして亡くなった神学者・信仰者ボンヘファーは、このように書いています.
人の命令に服従して苦しむほうが、自分自身の責任的な行為の自由において苦しむよりも、無限にはるかに容易である.交わりのなかで苦しむほうが、孤独の中で苦しむよりも無限にはるかに容易である(『獄中所管』、「1943年に向かう年末に書いた報告」).
 わたしたちも、交わりの中で祈ることの、孤独の中で祈るに比して、はるかに無限に恵まれていることを知るべきではないでしょうか。
 
  Jan,25 2000 堺キリスト教会
  説教題「恵と希望」
  賛美歌、20、 U-157、 U-192

  ヨブ記(新共同訳)
1:4 息子たちはそれぞれ順番に、自分の家で宴会の用意をし、三人の姉妹も招いて食事をすることにしていた。
1:5 この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた。「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにした。
1:6 ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。
1:7 主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。
1:8 主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」
1:9 サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。

  ヨハネ
9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
9:2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
9:3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
9:4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。
9:5 わたしは、世にいる間、世の光である。」
9:6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
9:7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
9:8 近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。
9:9 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。
9:10 そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、
9:11 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
9:12 人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

 同じようにこの部分も読んでみましょう
  ルカ
13:1 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。
13:2 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。
13:3 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。
13:4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。
13:5 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
13:6 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。
13:7 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』
13:8 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。
13:9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
 

 これは外典に属するところですが、ユダヤの民が、苦痛のもとで、たえざる「悔い改めと」、「砕けたる魂と、へりくだった心をもって、み前にゆるしをこう」という、すがたを示していますので見てみましょう。

 第四エズラ 7:31-36
  ただ私の審判だけが残り、真理は存続し、信仰は勝利をおさめるであろう。
 報酬は続き、むくいは現れる。
 善行は目覚め、あくこうはもはや眠ることがない。
 こうして苦難のごうが、清凉の地に面して現れる.
 ゲヘナ(地獄)の炉は開かれる。
 浄福(じょうふく)のパラダイスと相対して。

 説教題ですが、よく考えてみると反対の言葉のようにも取れるのです。恵というと、神様に属する言葉なのです.救いとか、「義とされる」ということもそうかもしれません。ところが、希望は、願いや、確信と同じように、私たちの問題として理解されることの多い言葉のようです。
 聖書、特に旧約聖書は、どのように理解し、イエス様は、どんな回答を私たちに与えてくださったでしょうか?
 ヨブは、正しい人でした. しかし悪魔は、「それは、信仰において正しいのではなく、信仰することで、ご利益があるからに決まってるじゃないか」と指摘をしているのです、律法にある信仰生活がだんだん閉塞状態に陥ってきたとき、このような、因果応報の考えは、だんだん強くなっていきました.
 良いいつの手段は、ひたすらささげ物をし、種に罪の悔い改めをし、また、罪を自覚し、繰り返して、365のねばならぬと、248の、してはならないに、救いを求めるようになっていったといえるでしょう.

 クリスチャンにだってそんな考えから自由になったんだとはいえない面があるのです.聖書には、旧新約を通して、たしかに、救いと滅びについて、それがあるとかいてあるのです.それでは、救われるためには、という問題が当然のように重大な問題になってきます.
 私たちは、このような事を問われたときになんて答えるでしょうか?「主に仕える良い行いをする」ことによって救いの道は確かなものになるってのも、答えです.しかも長い間、かなり説得力のある答えでした、今でもそうかもしれません.
 「私はこのように、主のために尽くした結果は無駄ではなかった、それで今のような恵の内に入れられたのだし、豊かにもなった」って、どこかで聞いたような気はしませんでしょうか? ひょっとしたら、私たちも言っているかもしれません。
  ところが日本人、日本文化で育った人たちには、とてもわかる理解なのです。
 こんな人たちもいます.「我々は、御心がなるように」と祈る、そして、もしわれわれが、滅びへと定められていたとすれば、自らが滅びへと導かれるのも御心のなること、感謝します」とうのも、あたかも正しいように聞こえることもあります.
 主よ主よ、というものが皆救われるわけではない(MT)、私たちは、山羊の道に導かれるのでしょうか、羊の道に導かれるのでしょうか?
 
 ユダヤ人にとっても、このことは大問題でした.イエス様はなんとお答えになり何を明らかにしてくださったでしょうか?新約聖書にはいっぱいこの答えが出ています。
 盲人を見た弟子たちは
 「この人が罪を犯したからこんなめにあったのでしょうか.それとも、この人たちの親の罪によるのでしょうか」とききました。主のお答えは、「そのどちらでもない」という、弟子たちには理解できないようなものでした.また、エルサレムの建設現場で事故があったとき「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。」とお答えになり、完璧にこのような、因果応報の考えを打ち砕かれたのです.
 ちょっと混乱してみましょうか、行いがどうのこうのということではないのです.それじゃ、何をしているかは問題ではないのでしょうか?人に罪を教えられ、律法を与えられた、神の存在は、どっかに消えてしまったのでしょうか.

 クリスチャンは、どこに救いを確信するのでしょう.あの青年は、「えいえんのいのちをえるには・・・。」と主に聞きました.おそらく彼には、守れる限りの律法を守っているにもかかわらず、救いの確信はなかったようです.そんな読み込みはオーバーでしょうか? そんなことはないと思いますよ.むしろ、率直な疑問だったとお見ます.主は哀れまれました。
 わたしたちは、すくいについて、ふくいんについて、主について、あいについて、などなど、語ることを知っているでしょう.しかし、救いを、福音を、主を、愛を、となると、はるかに難しいことに気が付くはずです.私にとってのことを語るのですから.いや、私のことを語るのですから.

 こたえは、主イエスは、愛のかただということでしょう.このことに「ついて」は語りようがないのです.信じることなのです.
 わたし事ですが、私の目が、悪かったことについて、母はずいぶん負い目に思っていたようです.おそらくそうだということしか言えないのですが、どうやら妊娠中に風疹にかかったようなのです.べつに、うらむような事はなかったのですが、母親にとっては、一大事だったことは良くわかります.おそらく、「なぜ?」と何回も何回も悩んだに違いありません.何かの不幸にしはいされているのではと。聖書を知っていれば、上のヨハネ福音書を読んだでしょうが、結局読むことはありませんでした.
 理由がはっきりしているのですから、結果まで何か神秘的な世界に追いやる必要もないのではないでしょうか.それだったら、まず私たちはなぜ日本人なのかとか、そうでないのかとかということにまで、何か、計り知れない神秘の理由を求めるような事になってしまいます。イエスは、エルサレムの工事現場の事故の例を挙げて、そのような事をしてはいけないとも語っておられます.
罪におびえつつ日常をこのような宗教的な姿で過ごさなければならなかった敬虔な、ユダヤの人々には、工事現場の事故も、癒されるために、主がまえにお立ちになった盲人の姿も、そのたもろもろの{汚れた}といわれるものや人の存在が、摂理や、報いの姿としてどうやら現れていたようです.
 律法について、その戒めが問題とされる世界に対して、今私たちは、福音の世界をなんと説明するでしょうか?

3:21 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。
3:22 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。(ローマ)
ということを読んでいながら、「キリスト教式律法」を作っていることはないでしょうか?このような中から生まれるものは、劣等感であったり、また、優越感であったり、およそ、福音を知る(福音について知るではなくて)私たちの目標ではないのです.「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」、ちょっと訳しずらそうな感じのところなのですが、これが、いまや愛の神として私たちの前に現れてくださった神への信仰の理解なのではないでしょうか.
  ←―― これは敬虔なユダヤ教徒の姿ですが、出エジプト記に出てくる「聞けイスラエルよ・・・」(これはキリスト教教育の原点のひとつとして、私たちも読むところですが)にしたがって、歩く時も起つときも座するときも・・・、と実際に表現するとこのようになります.私たちには、一見この姿が祈りの姿のように見えるかもしれませんが、礼拝をささげるときには、直接神との交わりを持つわけですから、このような、信仰の表現や、主なる神とのパイプ役は必要なくなるので、このような姿はしません。

 
 
 
 
 
 

七月第二主日
堺キリスト教会
説教題:「希望への出発
賛美歌:56、U-192、352
今日の聖句:「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい

   【新共同訳:使徒行伝】
3:1 ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。
3:2 すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。
3:3 彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しをこうた。
3:4 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。
3:5 その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、
3:6 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
3:7 そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、
3:8 躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
3:9 民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。
3:10 彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しをこうていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。

 実に多くを学ぶことが出来るでしょう.ペトロとヨハネは、三時の祈りに出かけましたが、そこは、キリスト教の教会ではありませんでした.この使徒行伝のはじめの頃には、まだ教会というものがはっきりとした形ではなく、もし後になって加筆されたと理解しても、「三時の祈り」という形で、かかれるほどには確立したものではありませんでした.ここにある三時の祈りとは、ユダヤ教のしきたりのことを言っているのです。はっきりと、神殿にと書かれています.そして、この二人には、「異教」などという理解もなかったようです.ペンテコステの出来事以来、一度もそのような考えは現れてきていません.
 そこに、この足の不自由な男が登場するのですが、この男と、二人の弟子とのまったく正反対な状況にまず気を止める必要があるでしょう。弟子たちは、希望、そしてこの男は、絶望という言葉で端的に示すことが出来るかもしれません.もしこの男に、「あなたにとって希望はなんですか?」という質問をしたとしたら、この男にはなんと答えることが出来たでしょう.おそらく何も答えることが出来なかったと思います.ひょっとしたら、「希望ってなんですか?」という言葉が返ってきたかもしれません.今の私たちが考えること以上に、施しをなすことは、律法からしても良いこと、義務でもありましたから、幾ばくかの施しを得ることは出来たでしょう.しかしそこまでなのです、施しを希望につなげる、などということは出来なかったようです.
 間違ってはいけないのですが、施しに、意味がないといっているのではありません、二人も、我々に、金や銀はないと断っています.施しや、与えられたものを、希望にまでつなげる力を与えることを言っているのです.私たちの教会に照らして考えればよく判ります.信仰だけ(この言葉については更によく考えなければならないのですが)では、教会は、維持できませんし、どんなに多くの奉げ物も、それを希望を持って最も有効に用いる知恵と、信仰が伴わなければ意味を失ってしまうことになるでしょう.かかれているようにこの男は、境内に入ったことすらなかったのです.「願いというものは達成される、という意味だ」ということが、手をもって立ち上がらせられたことによって判ったかもしれません.二人には、この「手を取って立ち上がらせる」力があったのです。
 その日その日を、繰り返して生きていたこの男が、希望を知ったということが、教会の歴史のごくはじめに書かれていることは、大切なことです.そして、
    私たちは、それぞれ、誰に手を取って立ち上がらせてもらったでしょう?.
具体的なことです.「私たちを見なさい・・・」と言われたことがあるはずです.
 そしてその根拠がナザレ人、イエスにあると聖書は語っています.律法や神殿での祈りによっては与えられなかったもの.希望について語っています.
 その次にそのような希望を持っている人の姿について、聖書は語っています.みなが驚くような、姿に変えられるのです.同じ人だと人々が気づいたと聖書にはあります.別人に変わったのではありません.別人のようになったかもしれませんが、もとのその男なのです.
 

   【口語訳:使徒行伝】   こちらは名古屋守山教会の聖書 
 
 

   またこんど(追加されます)