村上定幸先生は、私どもの日本フリーメソジスト教団の牧師であります。けれども、今日、お二人が結婚なさるという、そのことの意味はそのような肩書きというものとは全く関係がなく、一人の男性と一人の女性が結婚する、という、そのことの意味のこの重大さということを思う時に、この二人の結婚なさるということがどのような意味をもつものであるか、そのことを思いつつ、お二人の上に共々神様の祝福をお祈りしたいと思います。
『愛は寛容であり愛は情け深い。また妬むことをしない。愛は高ぶらない。誇らない。無作法をしない。自分の利益を求めない。苛立たない。恨みを抱かない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てを耐える。』(Tコリント13章4〜7節)
全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てを耐える。
既に、有名になっていると思いますけれども村上先生と真理子さんはインターネットにおいて、お出逢いになったのであります。世にパソコンというものが存在しなかったら、お二人は出逢わなかったということになるのであります。この晴れの日は、パソコン無しには起り得なかったのであります。けれども、パソコンは神様ではありません。また神様はパソコンではありません。神様は「愛」であります。けれども神様はパソコンではありません。愛の原理、あるいは本質というものと、パソコンの意味するところのそれとは正反対と言ってもよいものであります。パソコンの特徴の一つは即時性にある、と言うことが出来ると思います。瞬間にして世界中にメッセージを伝えることができるのであります。愛の特徴は、時間がかかるというところにあります。時間がかかる、ということは、忍耐が必要になるということであります。愛、と、それからパソコンを比較してもう一つ挙げられるのは、パソコンのことについて申しますと、本質的なことにあるものは、接続詞で申しますと、「だから」という言葉で言い表せる、と思います。「だから、だから、だから、、、、」という、こういうこの世界を追求していくと、パソコンの世界に深く入っていくことになると思います。これに対して愛の世界は「にもかかわらず」というところに、その決定的な特徴があります。「神様が私たちを愛して下さる」というのは、「神様がこのような者でもあるにもかかわらず、私を愛して下さる」そのように受け止めるべきものだと思います。
『全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てを耐える。』
村上定幸先生から「加賀田真理子さんと結婚したい」という話をお聞きしたのは、8月2日、岸里教会で関西聖会が開かれたその帰り道、教会の近くの喫茶店でありました。喫茶店では、村上先生が大体5分の4くらいお話なさって、私は大体聞き役にまわっていたのであります。で、申し上げたのは、「良かったですねぇ。おめでとう!」ということです。そして、お店の中で祝福の祈りをさせていただきました。そのお店での村上先生と私の出逢いがどのような意味を持つものとなったかということは、村上先生はご存知無いと思います。けれども申し上げることができるのは、その時の私の心の中に生まれた思い、祈りは今も無くなっていない、ということであります。8月2日から11月3日までは短い様で長かったと思います。その間一つ二つの小さな出来事が起っても不思議ではありません。けれども、全く心配しなくてよいと思います。
それにしてもあの時は、村上先生はとっても嬉しそうでした。豆粒のような、小さな・・・幼稚園の私の孫も撮っている小さな写真があるのですが・・・何と言うのでしょうか・・・あの豆粒のような写真を、先生は私に見せて下さいました。もちろんお二人の写った写真なのですけれども!村上先生にとって加賀田真理子さんは神様からの御褒美であります。村上先生のこれまでの忍耐と信仰に対して神様が与えて下さった御褒美だと思います。もちろん同じ事は真理子さんにも言えるのであります。
『愛は高ぶらない。誇らない。』
「高ぶらない」ということは「謙遜である」ということです。高ぶらない、あるいは謙遜である、その様な人の周りにいる人々、それはその人にとって身に余る人ばかりであります。身に余る友人に囲まれ、身に余る先輩に囲まれ、身に余る後輩に囲まれ、そして隣に身に余る夫がいて、また、身に余る妻がいるのであります。神様がいらっしゃる、ということ、イエス・キリストの祝福のうちに結婚できるということは何とすばらしいことか、と思わずにおれません。結婚なさったこの日から、忍耐の生活に入るのであります。神様がいらっしゃらなかったら、その忍耐の先にあるものは、暗い、あるいは空しいだけであります。しかし、幸いなことに、神様がいらっしゃる。ですから、あの8月2日の喜び以上の喜びを先生が、あるいは真理子さんがいつか期待できる、あるいは期待すべきである、と思います。
黙祷・・・・・・・・・・・・・・・