私の礼拝論
以下の引用から始めることにしたい。「(教会の典礼に関して)・・・理論なしにただ知的な活動や認識や信仰告白は犠牲にして、ただ生活だけを讃美してみるが良い。真理は軽視してただ現実を崇めてみるが良い・・・」。(1) すなわち教会とその神学がどのような事態に陥ってしまうことになろうか、という警告がなされているのである。そしてその中心をなすのが礼拝であり、結果は礼拝に現れ結集されるのである。常にこのことに敏感であり、我々は決断し、実行しなければならない。これが礼拝の本質、神の言葉を尺度とし、社会生活において証されるイエス・キリストをのべ伝えるという、キリスト者の営みによって支えられているのである。「主イエスがこのようにせよ」と言われ、また使徒たちによって守られてきたことである。これが人々から見た「礼拝」であり、世俗主義と近代的教会(2)を見極めるスケールでもあり、シンクレティズム(3)に対する我々の立場でもある。礼拝はいかようにも堕落し得るのであって、教会とその神学は、社会とも、文化とも、パラチャーチといわれる様々なミッション活動とも、さらには、クリスチャンからのさえ「相対的独立」(4)をたもたなければならないのである。2コリント4:7以下で、「信仰者たちに常なる努力を求め、元に戻ってしまわない緊張感」を要求しているパウロの言葉は、今も生きているのである。
私たちと私:讃美歌U編157とU192はともに素晴らしい詩をつけられているが、前者がすべて「われら」となっているのに対して、後者の「シャロンの花」は全て主語が「我」になっている。我々は常にこの二つの中を行き来しているのである。また、我々の内にその片方への傾斜を強く信仰上持つ人たちもいる。ある人々は、教会やその組織がどうなったにせよ、信仰の微動だにしないことを思い、ある人々は、所属するそれぞれの教会を失って、信仰の殆ど全てを失うように思えているのである。また、「なにをしているのか」が主要な信仰的関心事である人々と、「誰といるのか」を主要な関心事とする人々があり、我々もそうであるといっても良いだろう。このことを、受洗は個人的な行為であるが、交わりに参加することによって導かれる、などと簡単にはいえない内容を、礼拝論にもたらしているようである。福音と文化について考えてもそうである。(5)祈りについても、ボンヘッファーは『獄中書簡』において、次のように告白している、「・・・交わりの中で苦しむ方が、孤独の中で苦しむよりも無限にはるかによういである。・・・」と。(6)またこの視点の周辺を見渡すとき、ギデオン協会の配布用の小さな聖書の巻末には、「・・・私は、私の罪が許されることを求め、私自身の個人的な救いぬしとして主イエスを受け入れる・・・」とあるが、(ここに信仰告白の「サンプル」を掲載することに関して、批評の対象にしないまでも)「私は教会の聖徒の交わりの中で、ご聖霊の力をいただき永久の命に至らせてくださる主を告白する」という大切な内容が欠落していることにも気づかされる。
聖書的な礼拝:主イエスは「我らの父よ」と祈りなさい、といわれた。また主なる神は、人に頼ることを戒められた。その通りであって、上の発題は対立するものではない。宗教改革者たちの指摘は,御霊による、また御霊によって制御された、聖書的な礼拝の回復でもあった。神の民は、一緒に集まり礼拝をし、とりなすのである。教皇によって築かれた根拠のない礼拝様式から人々を解放し、自らも解放され、神の言葉を語る説教者をたて、また聖餐にあずかることを回復しようとしたのでもある。
この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。(1コリ1:21)とあるように、御言葉が神の言葉として語られることを回復しようとしたのである。(7)
その後:礼拝順序、式分制定など語らなければならない多くのことが課題となった。なおかつこれらの課題は、我々の理解可能な範囲において解決され、聖書に根拠をおく礼拝へと結実していったのである。
試論:としては、以下のような視点を設定したい。
1)求道者のための祈りと、制定。述べ伝えられなければならないことにおいて十分に聖書的でもあり、まず第一には祈りが加えられる求道者ではなく、教会の祈りとして重要なことなのである。続いて、自分たちが祈られていることの意味を知るのである。
2)弱者のための祈りに関しての同じく制定。現代のジュリアンソレル(8)を教会自身が作り出してはならない。ウェスリが「聖化」というとき、つねにSocial-Holinessを考えていたし、解放の神学(内容理解において未だ不十分な点があったにしても)、障害者の解放に関する課題を、教会自身が、自らに与えられた課題であることの、礼拝における福音的課題であることの確認が求められているようである。(9)
3)聖礼典の執行:確認の必要に及ばないほどに明らかなように思えるが、それほど明確なものになっていないのが現実のようである。礼拝においてもっともよく見えるところであり、従って違いも表面的に分かるところだからであろう。未受洗者に対する対応と、トラディションが大まかな論点となっているようである。従って次の二つの点に説明を加えれば、明らかになる。第一は、「歴史に帰る」といっても、どの辞典の歴史に帰るのかをはっきりさせなければならない。初代教会を目指すのかピューリタンを目指すのかでは異なるし。未受洗者にとっての陪餐に、いかなる福音的意味が与えられるのかが理解できれば、これらの問題も解決する。「幼児洗礼」を巡っても同様であろう。(10)
まとめ
以上の3点には、どれ一つ簡単なものはない。現実に議論が戦わされているところである。ただし
・議論を停止、あるいは放棄してはならない。そこにシンクレティズムが発生するのである、我々は、「どこまでをキリスト教会」といえるかなどといったボーダーを設定しようとするのではなく、「出発点から聖書の方にベクトルが向いているかどうか」に注目すべきである
・さらに教会に必要な奉仕として、神学が主によって与えられていることの確認が必要である。
・これには、エキュメニカルな視点が必要である、現代に文化と宣教との絡み合いの中で我々の礼拝は「見られており」我々も見ており、参加し、担っているのである
・これらの課題は解決されることへの確信
をスローガンとしたい。
----------------
(1) バルト、『啓示・教会・神学』(著作集Vol.2)、p.278、新教出版社、1989
(2) おなじくバルトの訳された用語、同上、p.313
(3) 「宗教混合主義」などと訳されるようであるが(『新キリスト教辞典』p.612、など)本質がぼやけてくる、という意味で「変質主義」とでも、あるいは「迎合主義」とでも訳した方が適切なように思われる。
(4) 相対的独立、ここで言う意味は、利益と姿勢を代表すると言うことと、「同じ」という意味とは異なる、という意味であって、「階級政党の綱領が、即時的な一般的要求とはかならずしも一致するわけではない」というのに似ている。
(5) 文化においても、あるいはキリスト者の生活態度においても、このような状態は発生する。八木重吉の詩は素晴らしいけれども、やるせないほどに美しい孤独な気分に満ちたものであり、トルスチの『復活』における頂点は、ネフリュードフとカチューシャが復活祭において、何百人という信者とともに「主はよみがえり給えり」とともに歌うところであろう。
(6) 新教出版社刊、p.16
(7) 「教会が聖なるということは、教会会員が聖なることである」、Wesley J.説教『完全について』から。
(8) 『赤と黒』において、上流階級の教会が、救い主の名によって、身分やその他において差別したようなことは、現代においては不要である。
(9) 福音派とか、XX派という問題ではなく、事実この種のニックネイムについては、なにがなにの反対なのかも混乱してわからなくなっているようであるが。
(10) 多くのプロテスタント教会は、告白をもって授洗を行ってきた。けれども、筆者は側面としてであるが、告白が、それほどまでに、信頼に値するもの、人の意志が主の前でそれほどに確かなものとは思えないのである。むしろ、幼児を「教会の子供」として、その成長に教会の責任があることを明確にすることにも、正当性があるように思えるのである。
例えば『神の乞食』、『聖アンセルムスの生涯』
死にゆく人に何ができるか
1:科学的アプローチはどこまで可能か
定型化・パターン化の危険性
全ての人は(肉体の)死を迎える。そしてこの事実に直面した場合、自らに置き換えてみても、その様子を見ていても苦痛そのもののように思える。それで「安楽死」もしくは「自然死」その他の言葉や、死に関する理解も、これらの解決困難に思えるような事態の解決に関わる姿勢や理解として使われるようになった。ここでは直接の課題ではないが自らの死に関しても、やがての日までの不透明感や、予想される苦痛、さらには、やり遂げていない様々な課題からの脱落を思い起こしても、何らかの解決が与えられなければならない事態のように思える。死を受容するにしても拒否するにしてもそうである。
旧約における理解は、日本の神道に似ている。栄える(重い)反対が死で、吹けば飛ぶようになってしまい、何もなくなってしまうのが死であると大まかに言うことができる(Qal動詞のQalがそうである)。
また、キリスト者の間では、「死は平安に満ちた状態への移行」という理解が広がり、ルターの周辺も、彼の死の瞬間がどのように平安なものであったかを示すために心を砕いた。アンセルムスにおいてもそうであった。
またヨーロッパの発送には、単なる肉体が死ぬこと(sterben)と、霊的な死を、相対的な角度から捕らえたい、という考えも現れている。
また「死」とその周辺、「終末医療」や「安楽死と医療」、「ターミナルケア」などといった言葉の内容に一定の理解を持ちたい、という欲求は多くの解説を試みる力となり、現実にそれらの内容を適応させる、という試みにつながっている。
死の否定(自分が死ぬと言うことは当面はない)
死への怒り
条件付き受容(これをしてから死にたい)
・・・・・・・・・・
新しい希望
などといった図式化やダイアグラムを用いた説明がよく見られる。
けれどもこのような心配はないものであろうか?
死はパターン化されるか?
というのがそれである。
子のと胃は大切に思える。この点から出発すべきであるようにも思える。ホスピスは大きな前進であったが、それは決して「死」へのエスカレータを用意することではない、
2:誕生・生・死は神の領域に属することである
なぜなら、創造主は神であるからであり、その中で我々は、それぞれの死と向き合うのである。片方に片寄れば、非常なプラグマティックな死観に陥ることになるし、科学的アプローチを拒否すると言うことになると、「信仰あるのみ」というこれまた型にはまった、生活を無視した定式化と、死んで行く人への無策をもたらすことになるようである。
キリスト者が死(死の間近い人)と向かい合うとき
私なら何をしてほしいか?について十分に祈り求めたか?
この人は何をしてほしがっているか?
御言葉を間に置き、はなすべきことがはなせているのか?
魂の対話。
また聞かれているのか? 理解されているのか?
私自身は祈っているのか?
その人と共に過ごすために十分な時間を割いているか?
それが大切なことと言う確信があるか?
またその人の苦痛の緩和にそれは役立っているか?
では誰と一緒にいたいと思っているのか?
十分な医学的な処置がその人にあった形で施されているのか?
同じことが、別れとして、残されるものたちにもなされているか?が問われることになる。 そうしないと「絶望に終わらない死」ということにはならない。
様々な配慮が求められるが、日本的な生命観・輪廻観からは、キリストにある解決といえるような歴史的解決はもたらされない。この「キリストにある解決」こそが我々のなすべき目的なのである。
3:キリストにある解決をめざして
kai.ei=pen auvtw/|( VAmh,n soi le,gw( sh,meron metV evmou/ e;sh| evn tw/| paradei,sw|A(LUK 23:43において倫理的にもその頂点が示されている。
イエスご自身は「生」の内からご自身が木の上に上げられことに常に目を留めておられた。「死を看取る医学」2回目で、次のように解説されている。
病院の機能は
検査、診断、治療、
治癒ー>回復
不治ー>ケア 苦痛からの解放と、願いの実現 価値ある死の時
ここにある願いの実現とは小さなことでもあったにしろ。その生涯に思いを馳せる、大切なケアであるというのである。
その通りだと思える、けれどもこの段階で、主にある解決が、希望へとつながるものである。という理解は一般には成立しない。そこには聖書理解が、常日頃からの聖書学習が長い教会生活の思い出が必要なのである。
聖書は、主イエスは、死についてなんといっておられたか。死の瞬間ではなく、当面は、死への直面から自由であると思われる日頃から、よく考えておくことが、この最も大切な時を豊かなものとするのである。
マリア・テレサはどうであったかというかというと、あなたはどの信仰において葬儀をしてもらいたいか」と聞き、そのようにしていたというのである。ある者はヒンデュウ今教で、またある者は仏教で、という具合にである。
そこで我々の課題は二つに分かれる。
それぞれの、勿論宗教上の、経験を持って生涯を送っている人にどう死の瞬間に対処しようとするのかがその位置である。伝道がなされていなかったことを悔いても始まらない。イエスが、サマリヤ人の例えにおいて語られたごとく、なされたごとく、何をも条件とせず、且つまた自らは仰者であることの確保、を最高の規範倫理として主は示しておられるのである。
第二は、その人が信仰を持っている場合である。或いはその人が、自分には信仰経験(教会生活の経験)があるのだと思い出すことのできる場合である。けれども、クリスチャンとて、死の恐怖、苦痛からの自己の確立、おそいくる不安から自由で聖化において「完全」などと言うことはなく、共に過ごす者との魂の会話がこのときに必要なのである。
いかほどにまで一生に価値があったことか。
いかなる罪をも主は解決なさるかた、癒されるいること。
死は「終わり」ではないこと。
私は共に御言葉において祈ることができ、そのために時間が割けること。
これらのことに我々が(完璧にではなく)、十分に力を注ぐことができるならば、それが我々が死にゆく人にできることである。
死には一定のパターンがあり、その「マニュアル」を充実完備していこうという、プラグマティックな,ともいえる把握には是々非々で臨みたいものである。
即ちだ(ここで語調がかわる)!
ガラテヤ
4:20 できることなら、わたしは今あなたがたの所にいて、語調を変えて話してみたい。わたしは、あなたがたのことで、途方にくれている。
私は、統計の一つのエレメントに埋没することを拒否する。
私は、知恵の中に閉じ込められたプラグマティックなマニュアルのような、この世の日々を拒否し、私の思いを超える広さを持つ神に期待する。また信頼する。即ち聖書と明白に明らかにされた理性に信頼する。
私は、臨床を中心的課題と設定する。
よく見る「心理学」と称する、統計とグラフで埋め尽くされた「論文」一エレメントに、私はもちろん、誰の、死をも、してはいけない、ということを、以下、
牧会カンセリングと臨床心理学の対立という観点から
説明してあげよう。
1:アルフォンス・デーケンス、『死とどう向き合うか』、NHK人間大学、1993
柏木哲夫、『死を看取る医学』、NHK人間大学、1996、などもその一つであろう。
ロスによる。
2:『死を看取る医学』ではp.116。
3:トゥルナイゼンの言葉。
4:鍋谷、『老いと死を考える』,pp.151-152
5:「統計心理学」の方法を持ち込んでいる一部の「日本臨床心理学会」の立場と、あくまでも、「その人のため